早く気多神社に春を!

我が気多神社(通称:気多大社)がここ数年”宮司の覚え書き不履行”の裁判沙汰や地元住民とのゴタゴタで大変なことになってます、最近になって又神社本庁の離脱問題で又もめてます。そこで早く気多神社が正常な姿になって欲しいと願いこの掲示板を開設致しました。皆様の建設的なご意見をお待ちしております。(気多の正常化の妨げになるような投稿は管理人の判断で削除する場合がありますのでご了承下さい。)


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謹賀新年 - NORI 2014/01/01(Wed) 17:28 No.1329   
明けましておめでとうございます。
神職さんは、年1回の大入りでお忙しいことでしょうね。
ここ関東は、寒波も和らぎ、温かな元旦でした。
地元の谷保天満宮に詣でて、気多神社の正常化をお祈りして参りました。
管理人さま。みなさまの御多幸と御健康も合わせお祈り申し上げます。

Re: 謹賀新年 - 管理人 2014/01/02(Thu) 17:59 No.1330

ノリさんに新年の挨拶の先を越されちゃいました!
皆様明けましておめでとうございます。

元旦の初参りは昨年同様「羽咋神社」「妙成寺」「気多神宮寺正覚院」でした。
お見苦しいでしょうが、正覚院寺標横の私の写真です・・・


Re: 謹賀新年 - 管理人 2014/01/02(Thu) 18:25 No.1331

妙成寺では大槻伝蔵の墓にもお参りしてきました。
ノリさんのおっしゃる25世の墓の裏面に伝蔵の戒名が彫られてます、その裏面(実は表面?)が表に向いて建ってます。

包丁侍の映画も見てきました、ストーリーのほとんどが加賀騒動がらみ!
能登の琴ヶ浜(泣砂の浜、以前は門前町でしたが今は輪島市)も出てましたね、私にとっても結構懐かしい風景でした。

ノリさん始めほとんどの方が加賀騒動での伝蔵冤罪説ですが、映画では側室真如院が無実だけど「実は伝蔵とは出来ていた・・」みたいな事を白状してましたが、金沢では前田土佐守家資料館もあり、そこそこ人気もあるので直躬を完全に悪者にも出来ない事情があったのかも?

良い映画でした。


Re: 謹賀新年 - 葉ざくら 2014/01/02(Thu) 21:34 No.1332

本年もよろしくお願い申し上げます。
管理人さんもお元気そうで何よりでございます。

私は地元の世田谷八幡神社に詣でました。
受験生の孫は世田谷線で3駅先の松陰神社迄足を延ばし文字通り神頼みをしてきたようです。

「武士の献立」観てきました。神職を追われた我が先祖が馬乗りとして江戸で仕官した頃と同時期に当たる為大変興味深く思えました。
エンディングの棚田の映像は能登の時国家?・・千枚田でしょうか。


Re: 謹賀新年 - NORI 2014/01/04(Sat) 10:06 No.1333

武士の献立の時代に遡れば、伝蔵冤罪などと云えば、連座で獄門縛り首。
北朝鮮で、チャンソンテクを庇うようなものでしょう。
前田土佐守直躬に逆らって、包丁侍など務まりません。そんな時代でしたから、真如院が伝蔵と出来ていたと演出するのは当然と云えば当然。

史実を無視し、気多神社が、三井一派により実効支配されているようなものかも?

たぶの杜 - NORI 2013/11/12(Tue) 10:52 No.1322   
釈迢空(折口信夫)<気多はふりの家>十九首から七首を抜粋しました。

・気多の村 若葉くろずむ時に来て、 
 遠海原の音を 聴きをり

・気多の宮 蔀(シトミ)にひびく 海の音。
 耳をすませば、 聴くばかりけり

・海のおと 聞こえぬ隅に、 宮たてり。 
 ひたに明るき 蔀(シトミ)のおもて

・たぶの杜 こぬれことごと 空に向き、 
 青雲は、 今日も 雨なかりけり

・たぶの木のふる木の 杜に 入りかねて、 
 木の間にあかるき、 かさけさを見つ

・祖々(オヤオヤ)も さびしかりけむ。 
 蠣貝と たぶの葉うづむ 吹きあげの沙

・わたの風 沙吹きあぐる しくしくに、 
 うき村住みを おもいけらしも

気多には代々からの氏子は存在しないとうそぶく三井一族により、地元とは無縁の独立法人に倉替えされてしまいした。
現代の法曹は、歴史を軽んじ、伝統を無視し、法の形式論だけで、伝統ある神社を地元とは無縁の信仰宗教法人として認可してしまいました。恋結びの新興宗教法人となった結果、大手の旅行業界からも敬遠され、気多神社に立ち寄る能登観光ツアーは、一つもない状況に陥っています。

折口先生の歌は、観光ツアーも村人も、神社には足を運びかねて疎遠となった気多神社の悲惨な現状を、太古より気多を守ってきた祖々(オヤオヤ)も、さびしい思いで眺めていると告げているように思えてなりません。

気多神社を、観光ツアーも立ち寄り、喜んで羽咋の物産を買い求める、地元と祖先の神々が護る正常な神社に戻りまで、がんばりましょう。

Re: たぶの杜 - 管理人 2013/11/22(Fri) 18:08 No.1324

毎度の事ながらノリさんの気多神社や地元に対する思い入れには感謝感激です。

特に冒頭の歌「気多の村、若葉くろずむ時に来て遠海原の音を・・」は我々羽咋人には良く知られています。
歌に出てくる”タブの杜”や”タブの木”も羽咋では知られており、以前羽咋神社近くに「スナックたぶの杜」があって良く行きましたっけ・・・。

今年の文化功労者に選ばれた、折口信夫の最後の弟子と言われる國學院大学名誉教授岡野弘彦氏は毎年9月羽咋で開かれる命日の催しにも参加され講演しております。

また初参りの季節がやってまいりました。
テレビでは気多神社のコマーシャルが「前田利家とまつゆかりの気多へどーぞ」みたいなのが流れていますが、果たして羽咋市民の何人が行くのやら。

でもほとんどの羽咋市民は、いつの日にか由緒正しき「能登一ノ宮気多神社」に初参り出来る事を待ち望んでおります。

Re: たぶの杜&「武士の献立」&「加賀騒動」 - 葉ざくら 2013/12/06(Fri) 00:26 No.1325

『能登の夢』『たぶの森』良いお話ですねー
加賀・能登・羽咋は先祖ゆかりの地です。なんと心地良い響きでしょうか。

昨日届いた季刊誌「北国文華」に映画「武士の献立」の記事が特集されていました。
加賀藩士シリーズ「武士の家計簿」の第二弾だそうですが、六代藩主前田吉徳公の晩年と「加賀騒動」の時代が舞台になっているそうです。

藩主のお料理を担当するのは「御台所方」というそうですが、藩主ばかりではなく、正月の挨拶に訪れる大勢の藩士が城に集まり、何百人もの食事を賄うこともあったそうです。映画では「包丁侍」と呼んでいます。将軍綱吉が加賀藩の江戸本郷上屋敷を公式訪問する「御成」に五代藩主綱紀公の頃には百坪の御台所に五十人程いたそうで、三千坪の敷地に四十八棟の御殿を新築したり、何度も訪れる将軍へ藩の威信をかけて饗応料理を提供したという史料からこの映画が作られるきっかけとなったそうです。加賀藩御料理人の劣等生に嫁した出戻り娘の夫婦愛がテーマのようです。
大型テレビドラマも映画も今や女性が主役の時代なのですね。

映画のシーンに使われた加賀料理ばかりか金蒔絵の御膳や器も必見!
加賀藩の料理人に西田敏行・その息子に高良健吾・その妻に上戸 彩・姑に余貴美子・前田土佐守直躬に加賀丈史・大槻伝蔵に緒方直人・側室真如院に夏川結衣など有名俳優が顔をそろえています。

『北国文華』「武士の献立」の特集には「和食」が無形文化遺産に登録となるタイミングから加賀料理と武家の饗応料理の相違点と食の習慣を文化としてとらえています。
また、最も興味を引いたのは石川郷土史学会幹事の横山方子さんの「加賀騒動は女の戦いでもあった」は「加賀騒動 面影の譜」のご著書で史料から「冤罪」を証明されていたことがご縁で真如院の墓所や野田山の前田家墓所をNORIさんもご一緒にご案内して頂いたのはついこの間の事だったような気がします。
NORIさんは以前から「冤罪」論者ですが、気多大宮司家も巻き込まれた可能性を示唆されています。

12月14日から全国公開上映。
石川県では7日から先行上映されるとか。


Re: たぶの杜 - 管理人 2013/12/07(Sat) 14:44 No.1326

葉ざくらさんにもご無沙汰しております。
北國文華、私も興味のある特集の時には購入していますが、と言ってもあの本は月刊ではなく季刊誌でしたっけ?

今朝の北國新聞の一面に「武士の献立」の先行上映の記事が!
他紙はこの映画には全く触れてません、まあ北國新聞社も製作に絡んでいるのだからチカラも入るのでしょう。

しかし一面で「秘密保護法案」と同格扱いもねえ〜・・・
でも地元の映画ですから見に行きますけどね。

先月市役所ホールでの歴史講演会にも加賀騒動の事を少しお話させて頂きました。
多くの羽咋市民は妙成寺に加賀騒動ゆかりの墓(慰霊碑)があることを知らないようでした。
その慰霊碑が妙成寺に建てられた経緯、加賀藩6代吉徳から11代治脩(はるなが)までの話をしたら驚いていました。

妙成寺にある伝蔵の慰霊碑説明を載せますが、ここでも伝蔵無実説です。


Re: たぶの杜 - NORI 2013/12/09(Mon) 09:52 No.1327

―大槻伝蔵の墓 ―
妙成寺の大槻伝蔵の供養塔は、昭和34年に故櫻井甚一氏が発見された。羽咋市滝谷の妙成寺歴代住職墓地の一角である。表面には25世日皎(にっこう)上人の戒名が記され、裏に揺落院朝露元草居士と彫られている。後ろ向きになっていたので、それまでわからなかったようである。
妙成寺誌には、「裏に名前を刻んだのは、(加賀騒動で)懊悩(おうのう)する善良院に答えて27世日塔上人が立てたものらしい。前々貫主日皎上人の裏に大槻の戒名を彫って供養した。それは、新しい供養碑では目立つからだろう」と推測している。金栄山滝谷妙成寺(羽咋市滝谷町)の過去帳には、「寛延元年9月20日、加賀藩士大槻内蔵允(くらのすけ)朝元(とももと)、越中五箇山の配所で自害。」「善良院より朝元(とももと)の回向料が納められる。」と記されている。
また真如院(しんにょいん)が埋葬されている経王寺過去帳にも、「寛延元年9月、俗名大槻内蔵允(くらのすけ) 揺落院朝露元草居士 善良院殿御志18人の内」とある。(櫻井甚一「金栄山妙成寺誌」)

 実は、供養塔を発見された故櫻井甚一氏(石川県考古学会会長)は、私の調査により、加賀騒動の首班。大槻伝蔵に連座して気多神社大宮司職を追放された櫻井権大宮司家の末裔で、かつ櫻井錠二氏(葉桜さんの祖父)と共通の祖先から枝分かれした一族であったことが確認された。
大槻伝蔵の名誉回復は、いわれなき連座で気多の権大宮司家を廃絶された櫻井甚一氏の祖先のお導きに思えてならない。
たまたまホームページで検索した葉桜さんの祖父・櫻井錠二氏の祖先が気多神社大宮司だったとの記述から、櫻井甚一さんも気付かなかった260年以前に消えた家系の足跡を、私が辿れたのは、妙成寺に残された大槻伝蔵の供養塔によるものでした。

なお、-大槻伝蔵冤罪-を明らかにした第一人者は、故若林喜三郎氏である。氏は「加賀騒動」(中公新書)で、事件の本質は、前田土佐守直躬(なおみ)と善良院一派が仕組んだ謀略ではないかと推定して、現在の定説になっています。

能登の夢パート2 - 管理人 2013/11/11(Mon) 12:45 No.1321   
ノリさんからの最新の情報、いや〜知りませんでした。
灯台下暗しと言うか、地元に居ながら東京の人から能登の情報を教えてもらう、すこし恥ずかしいですが、有り難うございます。

折口父子のお墓のある場所が気多神社ゆかりの墓地「信濃さんまい」のはずれなのですが、この前の講演会でも”信濃さんまい”の話やノリさんから聞いていた大宮司家(正式な)のお墓の話、気多の歴代神職のお墓、色々と話をさせて頂きました。
当日来ていたボランティアガイドの皆さんが特に「信濃さんまい」と気多神社の話に興味を持って、ゼヒその場所を案内してくれ、との事でした。
またノリさんの力を借りるかも知れません、宜しく御願い致します。

Re: 能登の夢パート2 - NORI 2013/11/14(Thu) 10:57 No.1323

早速購入して試聴しました。
森繁さんのナレーション入り。加藤登紀子さんには20年前に吹きこんで欲しかった感じ。(今の声は・・ちょっと・・ビブラートが好きになれない)

歌詞がいいから、知床旅情並みに愛されてもと思いますが、作曲が・・。森繁節のように吹きこめば、旅情・哀愁が漂ったのではとも感じました。聴きこめばよくなるかも。
カラオケバージョンもついていますので、4曲入りで1200円です。

能登の夢 - NORI 2013/11/10(Sun) 09:27 No.1317   
森繁久弥さんの歌詞に加藤登紀子さん作曲したシングルCDを発売されます。
内容は以下の通り。
特に2番の詩は、羽咋・一宮気多神社で詠んだ折口信夫先生の和歌と、
硫黄島で戦死された藤井(折口)春洋さんの生家<気多はふりの家>について森繁久弥さんが知っていたと思われるような歌詞です。

>1989年、七尾青年会議所メンバーの情熱に絆され、故・森繁久彌氏が自ら能登を訪れ、能登の自然の美しさと、能登で生きる人々の優しさや・心の温かさに触れ、海をテーマにした詩『能登の夢』を作詩されました。
故・森繁久彌氏の舞台音楽を数多く手がけ、親交の深かった故・岩代浩一氏がこの森繁久彌氏の詩に作曲し、故郷の抒情歌として『能登の夢』が誕生しました。現在も、市民音楽祭等で地元市民に幅広く愛されております。

今回、自然を愛することの大切さについてメッセージを続ける加藤登紀子氏に『能登の夢』の歌い手を依頼しました。森繁久彌氏と加藤登紀子氏のコラボレーションが、世界農業遺産「能登の里山里海」のイメージPRに繋がると確信しています。
また、能登のためにと加藤登紀子氏から「百年の恋歌」を作詞・作曲いただきました。

2012年12月、『能登の夢』『百年の恋歌』を同時収録(カップリング)したリメイクCDを制作いたしました。
『能登の夢』は、世界農業遺産「能登の里山里海」のイメージソングです。どうぞ、一緒に、歌って下さい。
(2012年12月25日販売開始)

作詞:森繁久彌

1.
能登はやさしや土までも
このやさしさにつつまれて
七尾の浦に育ちしは
血潮のたぎる誇りぞと 二、 和倉の浜に二人して
砂に字を書き君とまた
よしなきことを語りしは
遠いあの日の思ひ出か

2.
タブの葉ずれに光る海
何故か涙のこみあげる
ああ雲は流れ雲はゆく
ああ波は謳歌ひ波は呼ぶ 貝に心を寄せながら
耳にあつれば波の音
遙か岬の舂づけり
汐風よ海原よ ふるさとよ
友よ大空よ 能登の夢

Re: 能登の夢 - NORI 2013/11/10(Sun) 09:30 No.1318

作曲は、故・岩代浩一氏でした。訂正します。
加藤登紀子さんが今回、吹きこんだCDが発売されます。

Re: 能登の夢 - NORI 2013/11/10(Sun) 09:36 No.1319

再度の訂正。歌詞は3番までのようです。
折口信夫先生の歌集<春のことぶれ>の中に納められた<気多はふりの家>の和歌を彷彿させるのは3番でした。


作詞:森繁久彌

1.
能登はやさしや土までも
このやさしさにつつまれて
七尾の浦に育ちしは
血潮のたぎる誇りぞと

2.
和倉の浜に二人して
砂に字を書き君とまた
よしなきことを語りしは
遠いあの日の思ひ出か

3.
タブの葉ずれに光る海
何故か涙のこみあげる
ああ雲は流れ雲はゆく
ああ波は謳歌ひ波は呼ぶ 貝に心を寄せながら
耳にあつれば波の音
遙か岬の舂づけり
汐風よ海原よ ふるさとよ
友よ大空よ 能登の夢


Re: 能登の夢 - NORI 2013/11/10(Sun) 10:11 No.1320

一般発売はしていないので、お求めは七尾商工会議所のプロジェクトチームまで。以下のHPで購入可能です。
noto.or.jp/dream/cd.html

送料無料で1200円。銀行振り込み料金別途だそうです。

秋ですね - NORI 2013/10/19(Sat) 15:18 No.1312   
秋祭も終わり、能登もそろそろ冬支度ですね。釣るし柿もこれからですか?
先日、管理人さんの弟さんと同級で、羽咋高校から防衛大学に進まれた櫻井さんが、訪ねてこられて、色々と櫻井家のルーツや気多神社の話をしました。
お酒を飲まれないのが残念ですが、わが家系のは大酒飲みか、全く飲まないかの両極端の人種が混在するようです。
御父上は、旧制羽咋中学から陸軍士官学校に進んだ最初の方だったとか。
明治に官選宮司が派遣されたため、最期の大宮司となった基辰翁と兄弟の家系で、基生さんとも縁続き。

共に、気多神社が地元に愛される神社に戻ることで、話が盛り上がりました。

Re: 秋ですね - 管理人 2013/10/21(Mon) 23:05 No.1313

ノリさん久し振りです。
弟の同級生と会ったんですか、よかったですね、私も会ったら分かる方かも知れませんね。
しかも気多最後の大宮司家ゆかりの家の人とか。

実は今月31日に羽咋市役所のホールで市老人クラブ連合会の講演会に呼ばれてます、演題は「羽咋の知られざる歴史」と予定しています。

話は市民の誰でも知ってる場所の話でも、実は余り知らない事があるのでそんな歴史秘話みたいな話を予定してます。

出てくるのは妙成寺の秘密、市内の余り知られていない城や砦跡、羽咋七塚のハナシ、一の宮の信濃さんまいのハナシ、かつて正式な大宮司がいた気多神社の事、最近気多に登場した大宮司・宮司・権宮司のスゴイ話はどーしようかな?など色々と・・・
パソコンで写真も入れながら楽しい一時間半にしたいと思ってます。

主催者は200人位の参加と言ってましたが、そんなに来るとは思えませんが、でも老人会以外の人達も来るとか言ってましたっけ。


Re: 秋ですね - NORI 2013/10/22(Tue) 08:55 No.1314

管理人さんの弟さんと羽咋高校同窓で同じクラブの方は、、お父さんが気多神社の総代を勤め、三井氏宮司就任の際に、将来基生さんに宮司職を譲る約束に立ち会ったそうです。全く円満な話し合いで、居直るとは想像も出来なかったと。大社焼の磯見さんと同じころ?

旧宅は随神門を出たすぐ前にあり、今は気多神社が全く管理しないので、今後の保全が心配だと。三井氏が宮司を譲らず居直る理由は、台風で壊れた神社の修復に三井氏が個人資産をかなり使ったので他人には任せられないとか何とかゴタクを述べているようです。
元々、、私財を投げ出すほどの資産家でもなく、地元を離れて事情を知らない人に自己を正当化させる話で同情を得たいと思っているのでしょうか。帰省のたびに、三井氏とは会うみたいです。


Re: 秋ですね - 二代目会長 2013/11/02(Sat) 13:06 No.1315

>管理人さんの弟さんと同級で、羽咋高校から防衛大学に進まれた櫻井さん、

懐かしい名前が出てきました。私とも同窓生でよく知っています。高校を終わってから会っていないので、防衛大卒業後、仕官したのか、民間に入ったのか分かりません。

今年開催した、第20回卒業生の同窓会にも欠席でした。管理人さんの弟さんとはお会いして、彼らの部屋で2時頃まで飲んでいたのが昨日の事のようです。


>今月31日に羽咋市役所のホールで市老人クラブ連合会の講演会に呼ばれてます、演題は「羽咋の知られざる歴史」と予定しています。

私も話しを拝聴してきました。地元にいても初めて聞く話しに驚きました。

「面白い話しだった。」と帰り際に話していた人が居ましたよ。確かに昼寝の時間だったが、1時間30分ずっと聞く事が出来ました。

私の隣のおばちゃん(おばあちゃん?)は中川の人で、中川城の話しを興味津々で聞いていましたし、私が管理人さんの友達だと話すと、持っていた「南天のど飴」をくれました。しかも、3回も

ちなみに私は、老人会には入っていません。まだ若いですから、誤解のないように……。



Re: 秋ですね - 管理人 2013/11/02(Sat) 13:57 No.1316

いや〜2代目会長(羽咋星の会)の柴垣町のIさんも櫻井さんと同級生でしたか!世間は狭いです。

あの講演会、200名程の参加と主催者から聞いていたのですが、マジ満員御礼、補助椅子にまで座って聞いて頂きました、感謝。
後ろの方パソコンの写真見えなかったのでは・・?

2代目会長は絶対寝るだろうと思っていたのですが、最後までマジメに聞いて頂きました、寝てイビキかいたら演台の水掛けてやろうと思ってましたが・・・。

多くのご出席者の皆さんありがとうざいました。

無題 - NORI 2013/06/26(Wed) 17:47 No.1306   
梅雨ですね。
なにか新しい話題はありませんか?

Re: 無題 - 管理人 2013/06/28(Fri) 18:00 No.1307

いや〜梅雨の中だるみですね、そのうち梅雨明けぐらいに明るい話題でもあればいいんですが・・。

古代編完了とのことご苦労さまでした、一杯ご馳走したいところですが幸な・・いや遠いので叶いません、残念です!

またそのうちにやれるでしょう。

Re: 無題 - NORI 2013/07/01(Mon) 17:49 No.1308

櫻井錠二家と大宮司家の関係についても、ほぼ完結しました。加賀騒動に関してはあまり広げると他の社家の方にも、話が及ぶので、どうしようか考慮中です。
羽咋市市民歴史シンポジュームはやれそうですか?

Re: 無題 - 葉ざくら 2013/07/09(Tue) 21:02 No.1309

ご無沙汰をしているうちに、「権大宮司家の顛末」も完結してしまったのですね。大作ゆえに、家事の合間に読むのに二日も要しました。

錠二家だけ神道なのですが、東京は7月がお盆ですので先祖累代甚兵衛さんも喜んでいることでしょう。
NORIさんの貴重なお時間を割いて頂いて感謝いたします。

無題 - NORI 2013/05/31(Fri) 11:16 No.1305   
5月30日の私のブログで、「気多神社と櫻井家(8)」で、古代編は完了いたしました。
6月からは、明治に石川県が生んだ偉人の一人、近代生化学の第一人者として初代東大理学部長を勤めた櫻井錠二家と気多神社の関係。
更には加賀騒動に巻き込まれた櫻井大宮司家と、加賀藩士に取りたてられた錠二家祖先の関係など、歴史に隠れた謎を解き明かしてまいります。

無題 - NORI 2013/05/10(Fri) 16:37 No.1302   
連載[気多神社と櫻井社家]は、私のブログ<団塊の越し方行く末>
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/rchpp904で、今後10回くらい連載する予定です。このHPへの転載は今回限りとし、ご興味がありましたら、上記ブログをご覧いただきたくお願い申し上げます。
<加賀騒動に連座した大宮司家>、<石川県が生んだ科学者・櫻井錠二家と気多神社の関係> など、いままで公表されていない近世史について紹介したいと思っています。

<能登国気多神社櫻井宮司家が支えた皇子たち(3)>

能登の国、気多神社の櫻井八家は、都に登って立身出世する気多(太)十千代を、一族を挙げて支え続けた。その功績により、従五位下と気太君の姓(カバネ)を聖武天皇から授かった。以来、気多神社の櫻井大宮司家は、宮中から従5位下の位を授かるのが近世まで慣例として続いていた。
気太君十千代は、さらに天平宝字四年(760)五月に従五位下から正五位上を授かり、<内命婦(みょうぶ)>の地位に就いた。地方出身の女官としては異例の出世で、中央貴族・王女の列に加えられたのだ。十千代は、光明皇后が指揮する皇后宮職として、東大寺造営の写経所にしばしば顔を出している。

地方豪族から宮廷に参内して勤める女性は、一般に<采女(うねめ)>と称された。だが国司と並ぶ地位にあった気多神社の神職家から選ばれた才女は、はじめから采女の上位職の<女孺(じょじゅ・めのわらわ)>で参内したから、ここまで異例の出世を遂げたのであろう。
当時の宮中慣習で、女官の賜姓ともに一族にも同時賜姓の名誉が与えられる例は、その一族が天皇家の皇族の子女の養育を担い、その皇女・皇子が役職に就いた際に、養育の功績を讃えられ、叙位叙勲される慣例になっていた。
気多神社が管理する皇室直轄領地は、能登半島一帯に<気多神宮領>として、邑知潟平野から奥能登まで広がっていた。この邑知潟の経済力が気多十千代を都で活躍させる資金源だったのだ。

では気多十千代とその一族は、当時どの皇子の養育に関わっていたのだろうか?
それをひも解くカギは<気多(けた)>である。当時の皇子・皇女の諱(いみな)は、養育に携わった部民集団の呼称を名乗っている。十千代は、<気多神宮領地>を代表する女官だったので、出生の櫻井姓ではなく、<気多(太)神社>に因む姓が新たに与えられたのだろう。
それでは<気多>を名乗る皇子・皇女は、実際にいるのだろうか。存在しても、気太十千代と年代が一致しないと関連性は薄い。

調べてみると、古代の皇室で気多を名乗る皇子は、二名いたのである。

〇慶雲元年(704)従四位下に叙せられた気多王。
○天平神護二年(766)従五位下に叙せられ、翌年、鍛冶正(たんやのかみ:宮内省に属する製銅・製鉄を管理する長官)に任ぜられた気多王。

気太君十千代が関わった皇子は、年代的な整合性を考えると後者であったと考えられる。
この気多王は、続日本記によれば、桓武天皇の生母、高野新笠(790年没)と、桓武天皇皇后・乙牟漏(789年没)の葬儀の際の御葬司(葬儀委員長)を勤め、造斎宮司・中宮御葬司・皇后御葬司など<巫女王の誕生と葬送儀式>にかかわる皇室の祭祀・儀礼長官の役割を担っていた。
北陸随一の気多神社の祭祀族櫻井氏が育て、能登の経済力が支えた皇子として、なんとも相応しい皇子の役割ではないだろうか。

Re: 無題 - 葉ざくら 2013/05/29(Wed) 11:49 No.1303

我が祖父櫻井錠二の先祖に繋がる、ノリさんの連載「気多神社と櫻井家」は貴重な情報原です。永年に亘るご研究の集大成ともいえるノリさんの私家本「渚の祈り「気多の祝りの源流」等からも詳細が記述されていますが、なかなか読むのにエネルギーが必要です。
ノリさんと先祖の足跡を訪ねる能登の旅もご一緒しました。

錠二家には残念ながら加賀藩に仕官して武家になった寛保3年(1743)頃からの由緒帳しか残されていません。加賀藩資料や錠二自身が書き残した履歴書や累代家系図が手掛かりなのですが、年に一度か二度、金沢の近世資料館で得られる資料等で裏付けや新資料探しもしていますが、時間の制約もあり、なかなか進みません。
ノリさんの連載には消えてしまった歴史の一部を証明するジグソーパズルの一片を提供して頂いているよなことですので、貴重で有難いことと感謝しております。
私も浮世の雑事に追われながらも先祖と気多神社の繋がりを大切に思い続けております。




Re: 無題 - 管理人 2013/05/30(Thu) 23:41 No.1304

このように「葉ざくら」さんや「ノリ」さんのように由緒正しい気多神社ゆかりの人達が、気多について調べて語ってくれてます、地元の私なんかただぽかーんと聞いてるだけではバチが当たりそうです、皆さんももっと関心を持って応援してくださいね!

気多神社櫻井宮司家(2)‐気太君十千代と一族賜姓‐ - NORI 2013/05/08(Wed) 09:16 No.1300   
北陸は、その昔・むかし、<まつろわぬ越(コシ)の国>と呼ばれていた。<まつろわぬ越の国>とは、国家の命令に服従しない蝦夷(エミシ)の国と云った意味である。
そのころの日本は、<邪馬台国>から<ヤマト>の国と呼称を替え、箸墓古墳一帯の纒向(マキムク・奈良県桜井市)にはじめての統一王国が樹立されていた。<邪馬台国>が、このヤマト纒向を首都とするのか、九州にあったのか、はたまた出雲だったのかは、古代のロマンの中に埋もれたままだ。
ともかくも、現代に途切れず続く日本の古代王権にとっては、まつろわぬ北方蝦夷を従属させ、日本列島を統一国家に替えることが頭の痛い最大の政治課題だった。

その蝦夷の国に、ヤマト型の古墳を象徴とする支配構造を持ちこみ、越の国の橋頭保とされたのが、能登半島に鎮座する気多神社だった。当時の政治は、祀り事すなわち政り事。祭政一致が政治の根本であった。国家が祭祀する神を従わぬ蝦夷たちに信奉させることが、統一国家の国民の支配と従属の証だったのだ。

気多の神は、能登の国(羽咋・七尾)を皮切りに、越中の国(伏木)・越後の国(直江津)へと北進し、それぞれの国の守護神と崇められた。
この気多神社の本社神職として、ヤマト王権から派遣された祭祀族は、蘇我氏直系の櫻井朝臣の家系であった。・・と、明治政府により神職を追放されるまで、50数代も世襲神職を継承してきた上位神職櫻井八家の系図に残されていた。(その1前篇参照方)

気多神社の上位神職が櫻井八家に固定されたのは、天平一七年(745)のことだから。1268年前のことに遡る。この年、聖武天皇は紫香楽(信楽)宮に遷都し、その正月の行事で、遷都に従う女御・女官26名の功績を讃えて、叙位叙勲を与えたのである。詳細は当時の国記(国選歴史書)である続日本記に記されている。

その中の一人が<気太君(けたのきみ)十千代>であった。十千代は、正六位下から従五位下に格上げされ、二年後の天平一九年に、聖武天皇から<君>の姓(カバネ)を与えられた。<君>の姓は、古代王権の国造(くにのみやっこ)や、在地の部民(べみん)を率いる地方の伴造(とものみやっこ)の地位にある者に与えられたカバネである。その多くは、祭政一致の時代から、祭祀が分離された時代の有力神社の神職家に与えられている。

十千代と共に、櫻井一族八家は<気太君>を名乗ることが許された。以来、気多神社の上位神職八家は、<気太君櫻井>の姓を複性で名乗ることとなり、そのいわれを系図に残して氏姓継承してきたのである。
この習慣は、戦国末期まで続いていたが、能登半島が織田信長に平定され、前田利家が能登入部した際に、<櫻井姓>だけに戻している。京都を本拠とする能登国守護大名の畠山氏の滅亡とも期を一にする変革期であった。

ところでなぜ気太十千代は、地方出身出にして聖武天皇後宮の高級女官・内命婦(うちみょうぶ)まで出世したのだろうか?
聖武天皇の皇后は、あの正倉院を残した光明皇后である。妃は、藤原不比等と縣犬養(あがたいぬがい)三千代の娘に生まれた。皇室最初の皇族以外から皇后となった方である。当時の皇室を一手に仕切っていた女性が、縣犬飼養三千代であった。気太十千代は、三千代に気に入られ、光明皇后の入内とともに、皇后付き女官として皇室に勤めることになった。

当時の女官の役割は、後宮の雑務を司る女中ではない。王家の子女の養育を任される乳母の役(壬生部と称され、後世の貴族の荘園のような存在)を任されたのだ。乳母を任された豪族は、一族を挙げて献身的に皇子や皇女を支え、その皇子・皇女の立身出世が、支えた豪族の繁栄にもつながる仕組みであった。
能登半島一帯の皇室領の管理を任された気多神社神職櫻井一族は、能登の財力を持って王族一家の経営を支えたのである。こうした皇室直轄領から皇室に上納する慣習は、全国でも珍しく、江戸時代後半まで能登半島から櫻井神職家を通じて続けられてきた。

次回は、気太君櫻井氏が、養育を担った皇族について触れてみたいと思います。

なお、戦国時代から江戸時代初頭まで櫻井大宮司家で保管されていた古文書は、気多神社文書3巻にほぼ納められています。江戸時代中期以降は故あって公表されていませんが、加賀騒動との関連の謎をこのブログで明かしていきたいと思います。

気多神社と櫻井社家(そjの1) - NORI 2013/05/07(Tue) 18:51 No.1299   
私のブログ<団塊の越し方行く末>に気多神社の社家であった櫻井家について連載をはじめました。以下僭越ですが、転載します。

我が家は、能登半島羽咋市に鎮座する気多神社の宮司職を明治維新まで勤めた櫻井家の末裔に当たる。曽祖父まで神職を勤めたが、祖父の代に地元を離れ、神職とは縁が切れてしまった。明治初頭まで気多神社に奉職した櫻井家は20家ほどである。
今は社家とは無縁となったが、1200年以上も世襲神職を繋いできた能登半島最古参の家系について、しばらく我が家のルーツをたどり、本ブログに連載してみたいと思います。

気多神社は、北陸唯一の延喜式内大社に指定された神社で、奈良時代以前から<神宮>号をいただく神社は、この気多神社と、伊勢・石上(いそのかみ)・出雲・八幡・気比・閼宗(あそ)の七社だけにすぎない。北陸随一の格式高い神社であった。

我が家は、この越(こし)の国筆頭の神社の神職家として、明治になるまで五十数代にわたり連綿と神職を継承していた。越の国は、奈良時代以降に、越前・越中・越後・能登・加賀に分国されるが、その中心の能登に、ヤマト王権は、いまだ従わぬ北方蝦夷(えみし)を支配下に置く目的で、ヤマト王権の祭政一致の政治・経済・軍事・民政の橋頭保として気多神社を高くあがめ祀ったのである。

気多神社の祭神は、出雲の大国主命である。気多(けた)の名称もまた大国主命と深くかかわり、地名・神名は、出雲から発して日本海側に広がった。有名な因幡の白ウサギの神話も、気多岬である。

そのヤマト王権の北方経営の拠点とされた気多神社に派遣されたのが、畿内を本拠とする蘇我八腹の臣の一家である櫻井朝臣であった。我が家を含めた気多神社上位神職八家は、それぞれに受け継がれた系図の祖先を蘇我稲目と記している。

明治維新を支えた国学では、蘇我氏は天皇家に歯向かう大逆賊とされ、蘇我氏を祖とする櫻井社家は、世襲を禁じるとして気多神社から追放され、代りに国選宮司が明治政府から国家公務員として派遣された。しかしながら、気多神社には、特有の祭祀形態が残されていたので、国選宮司では対応できず、我が家を含めた数家が<常雇>と云う名称で、国選宮司の下で気多の祭祀を実質的に担う形が、第二次世界大戦終了まで残されていた。

戦前の歴史書では、蘇我氏はいわば天皇家の逆賊扱いだったから、櫻井系図は、外部には公表されず、気多神社の歴代宮司が蘇我氏系だと知る人は世間にはいなかった。蘇我氏が天皇系の逆賊ではなかったと否定されたのは、ごく最近のことである。

能登の古代史を考える上で、気多神社になぜ蘇我氏系櫻井氏が宮司に選任されたのか?
その理由と、大王(天皇)家と並ぶ大豪族の蘇我氏人脈が、能登に果たした役割をひも解くことは、能登半島と古代ヤマト王権との関わりを解明する重要なファクターと云えるだろう。

詳細は、拙書<気多祝の源流>を参照ください。残部がありますので、お読みになりたい方は、左欄のリンクから<真空管の音の喫茶店>HPを開き、ゲストブックからご連絡ください。国会図書館・石川県立図書館・羽咋市図書館にも置いてあります。

次回は、聖武天皇の時代に、能登から上京して天皇家後宮の上級女官を勤めた従五位下気太(けた)十千代と櫻井家について触れてみたいと思います。


Re: 気多神社と櫻井社家(そjの1) - 管理人 2013/05/10(Fri) 13:49 No.1301

下記のサイトはノリさんのお店です。
ブログに気多神社櫻井家の貴重な話が載ってます、ご覧下さい。
文筆家ノリさんの本領発揮部分です。

http://www.eastside-k.com/index.html




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